一人称が変わります

いつか灰になる獣の僕たち

 先日、京セラ美術館の兵馬俑展とポンペイ展に行った。

 

いや、実はその前に鴨川をどりにも行っていたのだけれど、鴨川をどりに関してはなにも言いたくない(ような気がして、なんとなく言わない)。決して嫌いになったとかではなく、むしろ千社札スマホに挟み始めるくらいには好きになった。

 見惚れた。美しいというのは、顔の造形に基準を作ることではない気がした。所作、アルカイックにも思える笑み、そういうものが。そういうことを話したくてここに書いているわけじゃない。もうやめよう。そうだ、これを話してしまうのはよくない。

 

 ポンペイ展しかり、兵馬俑展しかり、春のにおいが消えていくのに、温度だけはずっと冷え込んでいた。(しかり、という言葉で言葉遊びができたのならいいのにと思う)母の日のポスターを横目に、大学生にもなって大笑いしながら歩いた。

 

 こじんまりとした店の窯焼きピザのチーズの柔らかさが、昔好きだった祖母の家のソファに似ていた。そのうえで跳ねるとひどく怒られるのだ。のびるような質感の生地でできていたそのソファが好きで、掛けられていた毛布の下にわざわざ足を入れて、よく怒られていた。とはいえ、祖母の家のにおいはしないし、食べ物を食べられないものに例えるのはよくない。そして怒られすぎだ。

 

 

 兵馬俑展のなかで、始皇帝陵のコラムのようなものがあった。水銀の海。永遠の命のためならば、なんだってしたかったのだろうか。誰も入ることのできない墓のなかで、始皇帝はずっと待ち続けているのだろうか。そう思っていたら、目の前にある大きな展示すらしっかりと見れなかった。目をそらしたのは、何に対してなのだろうか。孤独?水銀で満ちた地下空間?そこまで生に執着する人間の性?

 最後の展示だった、本物であろう兵馬俑は、思っていたよりも大きかった。多分だいたい2メートルは越していたのではないだろうか。知らない。でも、威圧的だった。

 反射するカラフルな観覧者の洋服、オレンジの髪をした自分が、ガラスに、兵馬俑のあの土色に重なる。凄くみっともなかった。脱色して入れたオレンジが落ちてきて茶色と金色とオレンジが混ざった色。艶もなく、傷んだ髪の毛が、どうしようもなく嫌いになりそうだった。滑らかな肌をした兵馬俑たちと永遠に視線が交わらないまま、ガラスに反射する何かを眺めた。

 30体ほど並べられたレプリカの兵馬俑の中に、首が少し傾ている傭があった。その兵馬俑以外が同じに見えてしまったし、そのとき、こころが割けてしまうような気持ちになった。魂はどこへ行くのだろう。

 レプリカとガラスの中にいた傭の重みが違いすぎると思ったのは、ガラスのせいなのか、なんなのかわからなかった。

 

 曖昧なままでポンペイ展に向かって、ボールペンでノートにメモしようとして注意を受けた。そういえば美術館は鉛筆だけだった。すっかり忘れてしまうくらいに美術館から遠ざかっていた自分が嫌だなぁと思った。

 

 むかし、ポンペイで死にたいかもしれない、とTwitterの下書きに残した。この日本とは違うまだ知らない不思議な世界で、美しいものに囲まれて死ぬのが夢だった。

 

 魚達の緻密なモザイク画、赤色が残る踊り子のブロンズ像。石膏によって形の浮き上がった知らない女性の姿、真っ黒になったパン。輝きが失われずにそこにある細工。神話に登場する神々、カメオ。黒く躍動するライオン。

 

 ポンペイの存在を知ったのはいつだっただろうか。小学生の頃?確かマジックツリーハウスの中にポンペイの話があったのだと思う。今でも読みたいほど好きだった。ああして世界中を、時空を超えて歩き回ることができたのなら、この背中に羽が生えるよりずっと嬉しかった。

 

 時々ポンペイの夢を見る。石畳を歩けば美しい街並みがそこにあって、パンを焼く匂いがするのだ。空は青くて、雲は混ざり気のない白。ヴェスヴィオ火山が唸ることはない。でも、ひとりもそこにはいない。

 

 手首から先がない像。鼻先と肘から先を失った像、ひび割れたモザイク画。何かの欠けたものに、ひどく恋焦がれる瞬間がある。

 失われてしまった一部を探しているのか、諦めているのかは、ひとつだってわからないまま。瞼は開いているのに虹彩の色は知らない。その眼の輝きや光の反射、その全てを知らない像。

 

 展示装飾の赤色が、生々しくて、生きているのかもしれないと思った。自分自身が?それともあの展示されていた全てのものが?

 

 半袖のポロシャツから出た腕が外の空気を寒いと言った。なのにコンビニで買ったのは冷たいレモンソーダだった。美味しくて、肌寒い。

 

「大学辞めたいね」

 通りすがりの人がこちらを見るくらいに大きな声で笑いながら、友達と苦し紛れじゃなくちゃんと笑った。

 お母さんに買いたいと言って入った花屋で紫陽花を買う友達に付き合って、夕日の写真を撮った。韓国のアイドルの曲を大音量で流して、歌詞もわからずめちゃくちゃに口パクみたいに歌った。

 

 

 知ってるでしょ、死んだら灰になるんだよ。石膏で型どられることもないよ。灰はすごく軽くて、微かな音が鳴るだけだ。

 だから今は大きな声で笑っていよう。いつか灰になる、僕らは。

 

アルコール度数0.0000%

 こういう文章を書く時、「私」という一人称を使うと性別は女、「僕」や「俺」だと性別は男だと判断されがちで、そういうのが好きじゃなかった。

 そもそも性別も名前も好きじゃない。好きじゃない、と言うのはすごく楽な言葉だと思う。嫌いとは言わないのに、でも距離を置くような、中途半端であり続ける自分の心とうまく調和させることができる言葉だな、なんて思うことが多い。

 

 

 春がすぐに消えて、雨の匂いが強い日が増えた気がする。自分の本名が少しずつ広がって、数万人が歩く道を、自分も歩いている。

 大学の教室は冷房があまり効かなくて、まだ名前を覚えていない、どう呼んだらいいかもわからない人たちに溢れている。電車の中みたいだと思った。少し古くなった電車の冷房と、知らない誰か。汗が上手く引かなくて、変に冷えた身体がつらい。

 

 自分のことを守るためにどれほどの労力を払うことになるのだろうとなんとなく思った。

 自分の名前が嫌いだなんて言うと、なんでと言われるけれど、「嫌い」は自衛のためで別に名前自体を疎んでいるわけではない、と思う。ちょっとそこは怪しいかもしれない。

 まず、これはもう、その通りなのだけれど、大学は高校じゃない。高校は大学に比べればとても狭いコミュニティだと思っていて、しかも卒業した学校は規模の大きな高校じゃなかった。そこで自分のフルネームが晒されることがあっても、そこで終わる。ほとんどの人と一度は顔を合わせたことがあった。「自分の知っている人が、自分の名前を知っているだけ。」で、こちらが望めば、名字で呼んでもらえる安心感があって、仲良くなれば別に下の名前で呼ばれても構わないと思っていた。

 下の名前で呼ばれることが怖い。何かが奪われる気がする。自分の名前を呼ばれるとき、過去から今に至るまでの自分の全てを握られる感覚がする。大袈裟ですね、ここは大海原です。

 

 そういえば、人間に優しさを説くとき、本当はそんなものはどこにもないのかもしれないと思う時がある。

 

 Twitterに文章を書いていると、時々虚しくなる。フォロワーがいるTwitterアカウントが1番惨めだ。惰性のいいねと沈黙が溢れていて、本当に孤独だなと思う。孤独は、あまり好きじゃないです。

 

 DMで「男ですか?」と聞かれるたびに、辟易するなぁと思っていた。男だったら何ですか。じゃあ逆に女だったらなんなんですか?

 しょうもないことに噛み付くみっともない人間に成り下がっている自分がいて、それが1番惨めです。

 

 アルコールなんていらないくらい、もう酔ってる。何になのかはわからないし、多分この空気に酔っている。

 過剰摂取で死にそう。早く死んでしまうのもアリ。